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【動画補足】アニメ 天幕のジャードゥーガル 第11話 エーディト・シュタイン:魂の核に触れる本当の共感とは?

動画補足ジャードゥーガル11話 善悪・幸福・選択

アニメ『天幕のジャードゥーガル』第11幕「不器用な石」の動画補足記事です。
この記事では、海外でも大きな反響を呼んだボラクチンの策略と、シタラとソルコクタニの対話に触れつつ、動画内では時間の都合で語り尽くせなかった哲学者エーディト・シュタインの「共感」の哲学と、その生涯について詳しく掘り下げていきます。
相手と同じ気持ちになることだけが「共感」ではない。
シュタインが考え続けた「他者を理解するとはどういうことなのか」という問いを紐解いていきましょう。
ぜひこの記事と動画を合わせてご覧ください。

【動画補足】アニメ 天幕のジャードゥーガル 第11話 エーディト・シュタイン:魂の核に触れる本当の共感とは?

なぜシタラは、夫を失い絶望しているソルコクタニに「甘えないでよ」と激しい言葉をぶつけたのでしょうか?
今回公開した動画では、哲学者エーディト・シュタインの「共感」の哲学を通して、憎しみ合う二人の間に生まれた不思議なつながりについて考察しました。
共感とは、相手に優しくすることなのでしょうか?
それとも、もっと深いところで「その人自身」に触れることなのでしょうか?

この記事の動画はこちらです

ここから先はアニメのネタバレを含みます。

1. 海外も驚愕!『天幕のジャードゥーガル』第11幕で明らかになった「本当の魔女」

『天幕のジャードゥーガル』第11幕では、これまで断片的に描かれてきたボラクチンの策略が、一気につながっていきました。
オゴタイを毒にさらすだけではなく、自分自身まで実験台にしていたボラクチン。
その一方で、トルイを失ったソルコクタニは生きる気力さえ失い、そこへシタラが使者として現れます。
復讐相手の絶望を見ることを期待していたはずのシタラは、変わり果てたソルコクタニを前に、逆に自分の感情を爆発させてしまいました。
ボラクチンの恐ろしさと、シタラとソルコクタニの複雑な関係に、海外の視聴者からも多くの反応が寄せられていました。

海外ファンは第11幕をどう見たのでしょうか?

結局『天幕のジャードゥーガル』で描かれていた魔女って、シタラじゃなくて最初からボラクチンだったのかよ(笑)。
彼女の魔女としての経験は、もう次元が違う。

今回のエピソードを見ると、ボラクチンがどれほど長い時間をかけてすべてを計画していたのかがよく分かる。

ボラクチンは本当に集中力と覚悟、そして凄まじい意志を持った女だ!
オゴタイを死なない程度に毒にさらすだけでも相当大胆なのに、自分自身まで実験台にしていたとは。

シタラとソルコクタニの対比構造が本当に面白い。
二人とも愛する人を失い、人生そのものをひっくり返される経験をしている。

第11幕はボラクチンの策略だけではなく、シタラとソルコクタニという二人の女性の「似ているのに違う生き方」にも注目が集まっていました。

2. エーディト・シュタイン先生の哲学講座:「共感」は同じ気持ちになることではない

動画の後半では、ピヨ太郎ともちもちの元に、特別講師として哲学者エーディト・シュタイン先生が登場します。
シュタインは、若き日の博士論文で「他者の経験を、私たちはどのように理解できるのか」という問題に取り組んだ哲学者です。


※哲学者のセリフは、史実や著書の内容を参考にしつつ、アニメの考察に合わせて独自に構成したフィクションが含まれます。
学術的な正確性を保証するものではありませんので、一つの考え方としてお楽しみください。

エーディト・シュタイン
エーディト・シュタイン

共感は、相手と同じ気持ちになることでも、相手を好きになることでもないのよ。

ピヨ太郎
ピヨ太郎

えー!そうなの?

エーディト・シュタイン
エーディト・シュタイン

私たちが誰かを見る時、先に物として見て、後から心を想像しているわけではないのよ。
うつむいた肩は、最初から落ち込んでいる肩として見えている。
だから共感は推理ではなくて、見た瞬間にもう始まっているの。

シュタインが考えた「共感」とは?

シュタインの哲学で重要なのは、他者の経験を自分自身の経験と同一化しないという点です。
私たちは、相手の悲しみそのものを本人とまったく同じように経験することはできません。
それでも、その悲しみを「他者が経験している悲しみ」として捉えることはできる。
シュタインは、この独特な他者経験を「共感」として考察しました。

共感とは「あなたの悲しみを、私の悲しみにしてしまうこと」ではない。

相手の経験に近づきながらも、それが最後まで「その人の経験」であることを失わない。
そこにシュタインの共感論の重要な特徴があります。

だからこそ、共感と「もらい泣き」や感情の伝染は同じものではありません。
相手が泣いているのを見て自分まで悲しくなることと、相手が経験している悲しみを「その人の悲しみ」として理解することには違いがあります。

共感には「深まっていく過程」がある

シュタインは、共感が深まっていく過程を分析しています。
まず他者の経験が、その表情や姿勢、声などを通して私たちの前に現れます。
そこから私たちは相手の経験へとさらに入り込み、その人が見ている世界を理解しようとします。
そして再び相手を一人の他者として捉え直すことで、その人の経験をより明確に理解していきます。

エーディト・シュタイン
エーディト・シュタイン

共感の方は、内側まで入っても、これはあの人の悲しみだという線が最後まで消えないの。
私の中に現れているのに、私のものにはならない。

動画では、この考え方をシタラとソルコクタニの対話に重ねています。
なぜシタラは、ソルコクタニの絶望を見て激怒したのか。
なぜ「甘えないでよ」という、一見すると共感とは正反対に見える言葉が出てきたのか。
そして二人が互いに何を見つけたのか。
ここから先の「魂の核」に触れる考察は、ぜひ動画本編でご覧ください。

3. 哲学者エーディト・シュタインの生涯

ここからは、動画の哲学幻談に登場したエーディト・シュタインが、実際にはどのような人生を歩んだ人物だったのかを詳しく見ていきます。
共感を研究した若き哲学者は、やがて宗教へ向かい、ナチスによる迫害の時代を生き、最後にはアウシュヴィッツで命を奪われました。

3-1. 1891年、ユダヤ人家庭に生まれる

エーディト・シュタインは、1891年10月12日、当時ドイツ領プロイセンのブレスラウ、現在のポーランド・ヴロツワフにユダヤ人家庭の末娘として生まれました。
父親はシュタインがまだ幼い頃に亡くなり、母アウグステが材木業を切り盛りしながら家族を支えました。

シュタインは学校で非常に優秀な成績を収め、1911年にブレスラウ大学へ進学します。
当初は心理学を中心に学んでいましたが、エトムント・フッサールの『論理学研究』との出会いが、彼女の人生を大きく変えることになります。

3-2. フッサールとの出会いと「共感」の研究

フッサールの現象学に強く惹かれたシュタインは、1913年にゲッティンゲン大学へ移ります。
そこにはフッサールを中心として、アドルフ・ライナッハ、ローマン・インガルデン、ヘートヴィヒ・コンラート=マルティウスらが集まっていました。
シュタインはマックス・シェーラーの講義からも大きな影響を受けます。

彼女が博士論文のテーマとして選んだのが「共感」でした。
他者の心は、自分の心のように直接経験することはできません。
それなのに、なぜ私たちは他人が悲しんでいることや喜んでいることを理解できるのでしょうか?
この問いをシュタインは現象学の立場から追究しました。

1916年、シュタインはフライブルク大学で博士号を取得しました。
博士論文は最高評価を受け、その一部が1917年に『感情移入の問題について(Zum Problem der Einfühlung)』として出版されています。

3-3. シュタインの共感論が画期的だった理由

シュタインにとって共感は、単なる想像でも、推理でも、感情のコピーでもありませんでした。
他者の表情、身振り、声、身体のあり方を通して、私たちは他者を「経験している主体」として捉えます。

例えば、目の前の人が顔を赤らめ、声を変化させた時、私たちは最初に「顔が赤くなった」「声の周波数が変化した」と物理的情報だけを認識し、そこから論理的に「この人は恥ずかしいらしい」と計算しているわけではありません。
日常では、その人の恥ずかしさが身体表現を通して直接的に現れているように経験されます。

しかし、それでも相手の経験が自分自身の経験になるわけではありません。
この「近づくこと」と「他者のままであること」の両立が、シュタインの共感論を理解するうえで非常に重要です。

私は相手の悲しみに近づくことができる。
しかし、相手の悲しみは最後まで相手の悲しみであり、私自身がその悲しみの本来の主体になるわけではない。

この「他者との距離を残したまま理解する」という考え方が、シュタインの共感論の大きな特徴です。

3-4. 身体は単なる「物」ではない

シュタインの他者理解では、身体も重要な役割を持っています。
現象学では、物体として測定できる身体と、自分自身が内側から生きている身体を区別して考えます。

ドイツ語では、物体としての身体をKörper(ケルパー)、生きられている身体をLeib(ライプ)と表現します。
同じ一つの身体でも、単なる物体として現れる側面と、感覚や意志を持って生きている身体として現れる側面があるのです。

他者を見る時も同様です。
私たちは目の前の人を、単なる物体としての肉体だけで見ているわけではありません。
表情や姿勢、動きの中に、その人の感情や生き方を見ています。
この身体を通した他者との出会いが、シュタインの共感論にとって重要な出発点となります。

3-5. フッサールの助手になるも、女性研究者を阻んだ壁

博士号取得後、シュタインは1916年から1918年までフッサールの助手を務めました。
フッサールの研究草稿を整理し、後に『イデーンII』として知られることになる資料などにも関わっています。

しかしシュタイン自身が大学研究者として進もうとすると、大きな壁が立ちはだかりました。
当時のドイツでは、女性が大学教授になるための資格を得ることは極めて困難でした。
シュタインも大学教授資格取得を目指しましたが、その道を阻まれます。

彼女は女性が大学で研究者として認められる権利を求めて活動しながら、個人教授や執筆を続けました。
シュタインの思想は「共感」だけにとどまらず、心理学、人格、共同体、国家、女性の教育などへ広がっていきます。

3-6. アビラのテレサとの出会いとカトリックへの改宗

シュタインの人生に大きな転機が訪れたのは1921年でした。
友人ヘートヴィヒ・コンラート=マルティウスの家で、16世紀スペインの神秘思想家アビラのテレサの自伝を読みます。

この読書体験はシュタインに強い影響を与えました。
翌1922年、彼女はカトリックの洗礼を受けます。

その後シュタインは、13世紀の神学者トマス・アクィナスの研究を深めました。
フッサールから学んだ現象学と、トマス・アクィナスに代表される中世の哲学・神学を結びつけようとすることが、彼女の後期思想の大きなテーマになっていきます。

3-7. 「共感」から人間そのものへ

若き日のシュタインは「他者の経験をどのように理解できるのか」という問いから出発しました。
しかし研究を続けるにつれて、その問いはさらに大きなものになっていきます。

人間とは何なのか。
人格とは何なのか。
身体と心はどのような関係にあるのか。
人間はどのように共同体を作るのか。
そして「存在する」とはどういうことなのか。

シュタインは人間を単純な肉体だけの存在として扱いませんでした。
彼女の哲学的人間学では、人間は身体・魂・精神からなる複雑な統一体として考えられます。
感情もまた、その人が何を大切にし、どのような人格を持つのかを理解する重要な手がかりとなります。

後期には『有限存在と永遠存在』などにおいて、現象学とトマス哲学を結びつけながら「存在」そのものについて思索を深めていきました。

3-8. ナチス政権とカルメル会への入会

1933年、ドイツではナチスが政権を握ります。
ユダヤ系であったシュタインは、その出自を理由としてミュンスターでの教職を続けることができなくなりました。

同年10月、シュタインはケルンのカルメル会修道院へ入ります。
修道名は「十字架のテレサ・ベネディクタ(テレジア・ベネディクタとも表記)(Teresia Benedicta a Cruce)」でした。

ナチスによるユダヤ人迫害が激しくなる中、1938年には安全のためオランダのエヒトにあるカルメル会修道院へ移ります。
しかし、そこも安全な場所ではありませんでした。

3-9. 1942年、姉ローザとともに逮捕される

1942年7月、オランダのカトリック司教たちはナチスによるユダヤ人迫害を公然と非難しました。
これに対する報復として、ナチス当局はカトリックへ改宗したユダヤ系住民も逮捕します。

1942年8月2日、シュタインは同じくカトリックへ改宗していた姉ローザとともにゲシュタポに逮捕されました。
二人はアウシュヴィッツ強制収容所へ送られます。

そして1942年8月9日、エーディト・シュタインは姉ローザとともにアウシュヴィッツで亡くなったとされています。

哲学者として「他者を理解するとは何か」を問い続けたシュタインは、人間が個人としてではなく「ユダヤ人」というカテゴリーだけで扱われ、命を奪われる時代の犠牲者となりました。

3-10. 哲学者から「聖人」へ

シュタインの思想と生涯は、死後も忘れられることはありませんでした。
1987年5月1日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福され、1998年10月11日にはカトリック教会の聖人として列聖されました。

哲学史ではエーディト・シュタイン。
カトリック教会では「十字架の聖テレサ・ベネディクタ(テレジア・ベネディクタとも表記)」として知られています。

心理学から哲学へ。
現象学からトマス哲学へ。
大学研究者を目指した女性から修道女へ。
そしてホロコーストの犠牲者へ。
シュタインの51年に満たない生涯には、20世紀ヨーロッパの哲学、宗教、女性を取り巻く社会、そして迫害の歴史が凝縮されています。


エーディト・シュタインについての参考資料

Stanford Encyclopedia of Philosophy「Edith Stein」
https://plato.stanford.edu/entries/stein/

Encyclopaedia Britannica「Edith Stein」
https://www.britannica.com/biography/Edith-Stein

4. シタラとソルコクタニ、そしてシュタインの「共感」

こうしてシュタインの思想を振り返ると、『天幕のジャードゥーガル』第11幕で描かれたシタラとソルコクタニの対話が、少し違って見えてきます。

シタラとソルコクタニは、決して単純な友人同士ではありません。
シタラは、自分から大切なものを奪った側にいたソルコクタニを憎んでいます。
一方で二人には、愛する人を奪われ、それまで生きていた世界を根底から崩されたという共通点もあります。

しかしシュタインの共感論から考えるなら、「同じ経験をしたから分かり合える」と単純化することはできません。
他者の経験は、どれほど近づいても自分の経験そのものにはならないからです。

共感しても、二人は一つにはならない。
シタラはシタラのまま。
ソルコクタニはソルコクタニのまま。
それでも、相手の中にある何かに触れることはできる。

シタラがソルコクタニの中に何を見たのか。
そして「甘えないでよ」という言葉が、なぜソルコクタニを再び立ち上がらせることになったのか。
動画ではシュタイン先生が「魂の核」という視点から、二人の関係をさらに深く掘り下げています。
この部分は文章ですべて明かしてしまうよりも、ぜひピヨ太郎、もちもち、シュタイン先生の哲学幻談で楽しんでいただければと思います。


まとめ

アニメというエンターテインメントの中にも、人間とは何か、他者を理解するとは何かという哲学的な問いが隠されています。

『天幕のジャードゥーガル』第11幕で特に印象的だったのが、シタラとソルコクタニの対話でした。
シタラはソルコクタニを憎んでいる。
それなのに、絶望してすべてを諦めようとする彼女を放っておくことができませんでした。

今回シュタインについて調べていて、私が特に興味深いと思ったのは、共感は必ずしも「優しい感情」ではないということです。
相手と同じ気持ちになることでもなければ、相手を好きになることでもない。
むしろ「相手は自分とは違う人間だ」という距離を残したまま、それでも相手の経験に近づいていく。
この考え方は、人間関係を考えるうえでもすごく面白いですよね。

そしてシュタイン自身の生涯を知ると、この「他者を見る」というテーマがさらに重く感じられます。
彼女は哲学者であり、女性研究者であり、カトリックの修道女でもありました。
しかし最後には、その一人の人間が持つさまざまな側面ではなく、「ユダヤ人」という分類によって迫害され、命を奪われました。

人を「もう分かった」と決めつけず、その人自身を見続けること。
簡単そうに見えて、実際にはとても難しいことなのかもしれません。
今回の第11幕とシュタインの哲学を通して、私自身も改めて考えさせられました。

シタラとソルコクタニの間で起きた「共感」を、シュタイン先生がどのように読み解いたのか。
続きはぜひ動画本編でお楽しみください。

動画では、シタラとソルコクタニの対話をシュタインの共感論と重ねながら、より視覚的に分かりやすく解説しています。
まだご覧になっていない方は、ぜひチェックしてみてください。

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